静謐な音楽に圧倒されます
モーツァルトのレクイエムが好きで、
いろいろな音盤を集めて聴いています。
もちろんレクイエムは
モーツァルト以外にも多数の作曲家が
遺しているのですが、
それを遡っていけば、
グレゴリオ聖歌にたどり着きます。
そこまで遡るちょっと手前のあたりに、
このビクトリアのレクイエムが
存在します。
黄金時代スペインの最大の作曲家
トーマス・ルイス・デ・ビクトリア。
その代表作「レクイエム」を聴きました。
ビクトリア:レクイエム
死者のための聖務曲集(1605年刊)
ビクトリア:
レクツィオ「わが心は生活に疲れたり」
グレゴリオ聖歌:
私はよみがえりである
神なる主はほむべきかな
ビクトリア:
死者のためのミサ曲
イントロイトゥス
キリエ
グラドゥアーレ
オッフェルトリウム
サンクトゥス
アニュス・デイ
コンムニオ
モテット
「わがハープは悲しみの音に変わり」
アブソルツィオ
「われを解き放ちたまえ」
フィリップ・ケイヴ(指揮)
マニフィカト(合唱)
録音:1995年
このビクトリアの「レクイエム」の
構成がやや複雑で、
単独の作品ではなく、
1603年に亡くなった皇太后マリアの
死を悼んで作曲された
「死者のための聖務曲集」の
一部となっているのです。
その「死者のための聖務曲集」は、
「レクツィオ」
「レクイエム(死者のためのミサ曲)
「モテトゥス」「レスポンソリウム」で
構成されています。
この中の「レクエイム」が
飛び抜けて有名であり、
単独で演奏されることもあるのです。
本盤ではさらに
「レクツィオ」と「レクイエム」の間に
2曲のグレゴリオ聖歌を
挟み込むという措置がなされています。
それがどのような根拠と意図で
なされたものか、
浅学の私にはよくわかりませんが、
もしかしたら過去にこのような形で
演奏された形跡が
あってのことかもしれません。
購入以来、
何度も繰り返して聴いてきました。
そのたびに静謐な音楽に圧倒されます。
無伴奏のレクイエムが、
このように神々しいものだったとは
想像していませんでした。
俗世のものが一切含まれていない、
汚れ無き美しさなのです。
作曲家ビクトリアの創作姿勢を考えると
その最高傑作たる「レクイエム」が
人の世を離れた美しさであることも
納得できます。
ビクトリアはその生涯において、
宗教作品以外の音楽を
一切書きませんでした。
その音楽はどこまでも内向的であり、
またどこまでも精神的であり、さらには
どこまでも神秘的であったのです。
ストイックなまでに教会音楽に
身を捧げたその音楽的指向は、
華やかさの薫る当時の
イタリア・ルネッサンス期の音楽とは
全く正反対の方向だったのです。
音楽家としてだけではなく、
聖職者としても生涯を独身で通し、
浮いた話の一つもっていない
ビクトリアこそ、
最も神に近いレクイエムを書く資質に
恵まれていたといえるでしょう。
合唱団体であるマニフィカトの演奏も
完璧です。
神に奉仕したビクトリアと同様に、
ビクトリアのレクイエムに奉仕し、
音楽と同化したような
演奏となっています。
自らの音楽性を誇示しようなどという
姿勢は微塵も感じられません。
それゆえに音楽そのものが
聴き手の心に直接的に
突き刺さってくるのです。
さらに、本盤の録音の優秀さが、
その音楽の美しさを
究極的に引き出しています。
Linnレーベルからの一枚なのですが、
さすがは英国スコットランドの
伝統的オーディオ・メーカーです。
スピーカーからは音楽しか
こぼれ落ちてきません。
超優秀録音です。
このビクトリアのレクイエムを
聴いてしまうと、
モーツァルトのそれでさえ、
つくりものめいて
聞こえてきてしまいます。
ましてやベルリオーズや
ヴェルディのそれにいたっては
「まったく別物」というしか
なくなります。
いやいや、いろいろな音楽を
聴くからこそ愉しいのです。
音楽史の中に遺された
いくつもの「レクイエム」を、
それぞれじっくり味わえばいいのです。
やはり、音盤は愉し、です。
(2024.5.26)
〔ビクトリアのレクイエムの音盤〕
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