
中世の巡礼の旅・音楽追体験
1 はじめに
フィリップ・ピケット率いるニュー・ロンドン・コンソートによる名盤「サンチャゴへの巡礼」です。中世ヨーロッパにおける最大の巡礼地の一つ、スペインの「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」へと向かう旅路を音楽で追体験するような、素晴らしい選曲構成となっています。全21曲は、巡礼者が通過する地理的なルートや、当時の主要な写本に基づいて構成されています。
2 収録曲と演奏者
「サンチャゴへの巡礼」

CD1:ナバラとカスティーリャ
アルフォンソ10世:
カンティガ「聖母様によく仕える者は」
(カンティガ第103番)
作曲者不詳(ウエルガス写本より):
モテトゥス「ベリアルは狡猾なるもの」
モテトゥス
「主は墓よりよみがえりたまいぬ」
アルフォンソ10世:
カンティガ「たいしたことではない」
(カンティガ第26番)
作曲者不詳(ウエルガス写本より):
モテトゥス
「輝かしき家系より生まれたる」
コンドゥクトゥス・モテトゥス
「アルファに,牛に」
4つのプランクトゥス
セクエンツァ「心地よく良き言葉を」
トロープス
「神の小羊/良き生活の規範」
モテトゥス「ファ・ファ・ミ・ファ」
/「ウト・レ・ミ・ウト」
作曲者不詳(カリストゥス写本より):
一族の父
CD2:レオンとガリシア
アルフォンソ10世:
カンティガ「聖母マリアは喜んで」
(カンティガ第253番)
作曲者不詳(カリストゥス写本より):
コンドゥクトゥス
「毎年なされる祝典が」
アルフォンソ10世:
カンティガ「星が船乗りを導くように」
(カンティガ第49番)
作曲者不詳(カリストゥス写本より):
コンドゥクトゥス
「不滅なる栄光の王に」
アルフォンソ10世:
カンティガ
「聖母マリアは責められない」
(カンティガ第159番)/
「聖母マリアに焦がれて」
(同第175番)
作曲者不詳(カリストゥス写本より):
コンドゥクトゥス
「われら喜ばしき一団は」
アルフォンソ10世:
カンティガ「神のみ母」
(カンティガ184番)
作曲者不詳(カリストゥス写本より):
コンドゥクトゥス
「全キリスト教徒は
ともに喜ばんことを」
コダス:
7つのカンティガス・デ・アミーゴ
作曲者不詳(カリストゥス写本より):
巡礼歌「一族の父」
キャサリン・ボット(S)
ニュー・ロンドン・コンソート
フィリップ・ピケット(指揮)
録音:1989年
3 全体のテーマと主要な史料
このアルバムは大きく2つの地域
CD1:ナバラとカスティーリャ
CD2:レオンとガリシア
に分かれており、主に以下の四つの重要な中世写本から選曲されています。
①カリクストゥス写本
サンティアゴ大聖堂に伝わる12世紀の写本。巡礼者のための賛歌や多声唱が収められています。
②聖母マリアのカンティガス
カスティーリャ王アルフォンソ10世が編纂させた、聖母マリアの奇跡を讃える単声の歌集。
③ウエルガス写本
ブルゴス近郊のウエルガス王立修道院に伝わる13〜14世紀の多声楽曲集。
④マルティン・コダックスの「愛の歌」
13世紀ガリシアの吟遊詩人コダックスによる、海辺で恋人を待つ女性の視点で歌われた世俗歌。

4 巡礼路と四つの地域
CD1のナバラとカスティーリャ、CD2のレオンとガリシア、これら4つはすべて中世の「サンティアゴへの巡礼」において、巡礼者たちがフランス側からピレネー山脈を越え、目的地である聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指して東から西へと横断していった旧王国・地方の名前にあたります。このCDのトラック構成は、巡礼者が実際に歩く東から西へのルート順に並んでいます。

①ナバラ(Navarre)
イベリア半島の北東部であり、ピレネー山脈の麓です。
フランスからの巡礼者がピレネー山脈を越えて最初に足を踏み入れる地域です。緑豊かな山あいの風景と、巡礼者のための宿場町が栄えました。
②カスティーリャ(Castile)
スペインの中央北部に位置する広大な台地です。
中世スペインの中心となった強大な王国です。中心都市ブルゴスには名曲の宝庫である「ウエルガス王立修道院」があり、このアルバムでも重要な音楽的スポットとなっています。
③レオン(León)
カスティーリャの西隣、スペイン北西部の歴史的地域となります。
巡礼路の中盤から終盤にかかる地域です。古都レオンには美しいステンドグラスで知られる大聖堂があり、巡礼者たちが旅の無事を祈りながら通過していきました。
④ガリシア(Galicia)
イベリア半島の北西端で大西洋に面した地域です。
巡礼の最終目的地です。この地の中心都市「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」の大聖堂に、聖ヤコブの遺骸が祀られています。ケルト文化の面影を残す独自の言語(ガリシア語)と、海の見える風土が特徴です。
5 音楽的なつながり
このアルバムは、ただ曲を並べただけではなく、「巡礼者が旅を進めるにつれて、その土地土地で出会う音楽や言語が変わっていく様子」を再現した音の地理・絵巻物となっているのです。
例えば、Disc 2の最後に置かれた吟遊詩人マルティン・コダックスの「愛の歌」は、まさにガリシアの海辺の街・ビーゴで歌われた曲であり、旅の果てに到達した大西洋の風を感じさせる構成になっています。
6 収録されている音楽世界について
全21曲、実にさまざまな音楽が収録されています。CD1の1曲目、「カンティガ第103番」は、巡礼の信仰心を歌う華やかな楽曲であり、音楽の旅の開始に彩りを添える一曲です。2曲目以降に現れる「ウエルガス写本」からの数曲は、宗教曲としての厳かな雰囲気が感じられます。その途中に挿入された4曲目「カンティガ第26番」は、聖母の起こした奇跡の物語が長編の語り口調で歌い上げられていますが、その民族音楽的な「激しさ」が印象的です。
CD2は、カンティガとカリストゥス写本からの音楽が、ほぼ交互に現れる構成となっています。カンティガの民族音楽的な響きとカリストゥス写本の静謐な合唱が織りなす変化が、あたかも変わりゆく風景の流れを表しているかのように感じられます。1曲目、「カンティガ第253番」は、17分を超える大曲であり、管弦や打楽器が豊かに織りなす壮大な奇跡譚が綴られていきます。5曲目のカンティガ2曲メドレーは、躍動感あふれるリズムで巡礼の道中の賑やかさを思い起こさせます。8曲目のコンドゥクトゥスは男声の3声ポリフォニーであり、重厚かつ荘厳な雰囲気に包まれます。ところが9曲目、コダスによる哀愁に満ちた世俗歌曲が流れを変え、終曲の「一族の長」の力強いフィナーレへとなだれ込むのです。
7 本盤の特徴
⑴宗教性と世俗性の同居
中世の巡礼は単に厳粛な祈りだけでなく、民謡や吟遊詩人の歌、踊りや路上のパフォーマンスが混ざり合った一大イベントだったと考えられます。本盤ではラテン語の厳かな修道院聖歌(ウエルガス/カリストゥス)と、当時の話し言葉であるガリシア・ポルトガル語の活気ある歌(カンティガス)が交互に現れることで、その旅の空間が見事に再現されています。
⑵ピケットとピリオド楽器の色彩
多種多様な古楽器を操るニュー・ロンドン・コンソートならではの、素朴な響きでありながらも色彩の豊かな演奏が、旅路の風景を見事なまでに表現しています。

8 おわりに
音楽の背景にある地理や歴史、そして当時の人々が歩んだ物語を知ると、それまで単なる音の連なりだった旋律や楽器の響きが急に色鮮やかな「風景」として立ち上がってきます。
ピレネーの荒涼とした山道、カスティーリャの広大な台地、そして長い旅の終わりにガリシアの海から吹き抜けてくる潮風…。そうした空間の広がりがスピーカーの向こう側に感じられてきます。ぜひご賞味ください。
(2026.8.25)
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