「Bach To Black Vol.Ⅲ」を聴く

バッハと黒人作曲家のピアノ曲の素敵な共鳴

ロシェル・セネットによる
「Bach To Black」の第三弾です。
Vol.Ⅰが「イギリス組曲」、
Vol.Ⅱが「パルティータ」でしたが、
Vol.Ⅲは「フランス組曲」と
アフリカ系作曲家のピアノ曲との
組み合わせです。

Bach To Black Vol.Ⅲ
Rochell Sennet

今日のオススメ!音盤

Disc1
J.S.バッハ:
 フランス組曲第6番ホ長調 BWV.817
ヘイルストーク:
 5人の友
J.S.バッハ:
 フランス様式による序曲 BWV.831
リー3世:
 永遠の入り口への窓

Disc2
J.S.バッハ:
 フランス組曲第1番ニ短調 BWV.812
リング:
 4つのムーアの絵
J.S.バッハ:
 フランス組曲第2番ハ短調 BWV.813
オコエ:
 アフリカのスケッチ
J.S.バッハ:
 フランス組曲第5番ト長調 BWV.816
キング:
 四季のスケッチ

Disc3
J.S.バッハ:
 フランス組曲第4番変ホ長調
  BWV.815
スティル:
 7つの痕跡
J.S.バッハ:
 フランス組曲第3番ロ短調 BWV.814
ボンズ:
 スピリチュアル組曲

ロシェル・セネット(p)
録音:2023年

「イギリス組曲」「パルティータ」そして
「フランス組曲」は、いずれも
アルマンド、クーラント、サラバンド、
ジーグといった
「ヨーロッパの伝統的な舞曲」を
組み合わせた構成となっています。
セネットはこの「組曲」つまり
さまざまな性質の踊りの融合という
形式に着目したのでしょう。
アフリカ系作曲家たちもまた、
自身のルーツにあるリズムやジャズ、
スピリチュアル(黒人霊歌)、
近代的な音楽語法を、
クラシックの「組曲」という器に
流し込んで見事な作品を遺したのです。

取り上げられている黒人作曲家は
以下の通りです。
アドルファス・ヘイルストーク
 [1941-]
ジェームズ・リー3世
 [1975-]
モンタギュー・リング
 [1866-1956]
ンケイル・オコエ
 [1972-]
ベティ・ジャクソン・キング
 [1928-1994]
ウィリアム・グラント・スティル
 [1895-1978]
マーガレット・ボンズ
 [1913-1972]

1685 J.S.Bach

一人目のヘイルストークは、
アフリカ系アメリカ人作曲家であり、
高名な音楽教育家でもあります。
クラシックにおける
西洋の伝統を保ちながら、
自身のアイデンティティである
アメリカの音楽語法を大切にし、
第一線で活躍し続けている、
現代アメリカ音楽界の
きわめて重要な重鎮の一人です。
収録された「5人の友」は、
表題どおり「作曲者自身の身近にいる
5人の大切な友人たち」を音楽で描いた
ポートレート集となっています。
5つの短い小品から構成されており、
それぞれの楽章には
友人のファーストネームがそのまま
タイトルとして付けられています。
十二音技法や無調音楽といった、
現代音楽特有の難解さに
あえて背を向けた
ヘイルストークらしく、
この組曲もまた旋律線のわかりやすい
曲となっています。

二人目、リー3世は
「霊性・時間・黙示録的イメージ」を
中心テーマに据え、
強烈なリズムと象徴的な音響で
独自の世界を築く
アメリカの現代作曲家です。
ヘイルストークが
「歌う旋律と伝統的形式」を
軸にするのに対し、
リー3世は
「象徴・幻視・宇宙的スケール」を扱う
作曲家で、
その音楽は抽象的・劇的・神秘的な方向に
向かっています。
取り上げられている
「永遠の入り口への窓」は、
ヘイルストークとは異なり、
旋律線はわかりにくいのですが、
飛び跳ねるようなリズム感が
強烈な印象を刻みます。
この曲は「地上の人間が、
世界の終わりの先にある
「永遠の天国」を垣間見る窓」という
意味を持っています。
バッハの「フランス組曲」の最終楽章は、
いつも活発で飛び跳ねるような
3拍子や6拍子の「ジーグ」という舞曲で
締めくくられます。
リー3世のこの組曲も、最終楽章は
「刻印された者たちの踊り」という、
やはり強烈な舞曲で幕を閉じます。
セネットがこの二人を並べたことで、
「18世紀のバッハが
神への信仰を端正なバロックの舞曲で
表現したように、
21世紀のリー3世は
最先端の鋭いリズム語法を使って
同じように神への信仰と天上の歓喜を
現代の舞曲として表現している」という、
時空を超えたスピリチュアルな共通性が
浮かび上がってくる
構成になっているのです。

三人目のリングは、Vol.Ⅱでも
取り上げられていた作曲家です。
「モンタギュー・リング」は
ペンネームであり、その正体は、
アマンダ・アイラ・オルドリッジという、
イギリスで活躍した
非常に多才な女性音楽家です。
当時のイギリスでは、女性が、しかも
アフリカ系の血を引く人物が
「本格的な」作曲を出版することには、
社会的な偏見という
高い壁がありました。
そのため、彼女は
「モンタギュー・リング」という、
男性風かつ人種を特定されない名前を
使わざるをえなかったのです。
今回収録された「4つのムーアの絵」は、
東洋的・異国的な色彩感を持つ
美しい組曲です。
彼女のポップス的なセンスと、
ロマン派特有のオリエンタリズムが
絶妙にブレンドされた
傑作といえるでしょう。
ヘイルストークやリー3世が、
多かれ少なかれ現代音楽の洗礼を受け、
それを通過した上での
スタイルであるのに対し、
リングは「19世紀ロマン派から
20世紀初頭にかけてのサロン文化」の
空気そのものを生きた人です。
バッハの端正な美しさから、リングの
ロマンチックなサロンの響きへ。
この鮮やかな時代のジャンプもまた、
このアルバムならではの
粋な演出といえます。

四人目、オコエは、
父親がナイジェリア人、
母親がアメリカ人という
アメリカの女性作曲家です。
現代アメリカのクラシック音楽界、
特にオペラや管弦楽、声楽曲の分野で
非常に高く評価されています。
収録されている「アフリカのスケッチ」は
そうした彼女の作風が現れた、
ドラマチックな展開をみせる
組曲となっています。
「強烈なリズム→静かな流れ
→軽やかなリズム
→不安をあおるような和音」という
展開のグラデーションが、
アフリカでの体験を切りとった
風景画のように感じられます。
「フランス組曲」をはじめとする
バロック組曲は、
各楽章がそれぞれ異なる
キャラクターの踊り
(アルマンド=真面目、
クーラント=快活、
サラバンド=厳か、
ジーグ=激しい)を持ち、
全体として一つの
調和した世界をつくっています。
オコエもまた
「アフリカのスケッチ」という
4つの小品を通して、
西洋の組曲の伝統を借りながら、
「アフリカの日常にある
生・死・自然・家族のドラマ」を、
きわめてモダンなピアノの語法で
鮮やかに編み上げたものと
考えられます。

五人目のベティ・ジャクソン・キングは、
現代アメリカの
クラシック音楽界において、
作曲家、合唱指揮者、ピアニスト、
そして熱心な音楽教育者として
多大な足跡を遺した女性です。
彼女はアフリカ系アメリカ人の
伝統である「スピリチュアル」の
編曲・保存に生涯を捧げると同時に、
アカデミックなクラシック音楽の
発展にも大きく貢献しました。
収録された「四季のスケッチ」は、
表題どおりに
春夏秋冬を音で表現したものであり、
色彩豊かなロマン派の和声に
黒人霊歌の情緒を融合させた、
かなりわかりやすい音楽として
仕上がっています。
ただし、この「わかりやすさ」だけが
彼女の作風ではなさそうです。
未聴ですが、
キングの本格的なクラシック作品、
特にオペラ・オラトリオ・合唱曲になると
彼女の作風はガラリと姿を変えます。
きわめて現代的で緊迫感のある、
不協和音に満ちたパワフルな音楽を
書いた作曲家でもあるのです。
「フランス組曲」は、
バッハの数ある作品の中でもとりわけ
「親密で、家庭的で、耳に優しい」
傑作として知られています。
セネットは、
「フランス組曲」の持つその空気に
最も美しく寄り添い、
かつ対話ができる現代の作品として、
キングが遺した最も叙情的な
この「四季のスケッチ」を
ペアリングしたのではないでしょうか。

六人目のスティルは、
アフリカ系アメリカ人作曲家の
高祖と呼ばれる存在であり、
自身の楽譜にいつも
「インスピレーションの源である神へ、
謙虚な感謝を捧げる」と書き記すほど、
非常に精神世界を重んじる
敬虔な人物として知られています。
取り上げられた「7つの痕跡」は、
「雲のゆりかご」「神秘の池」
「押し殺した笑い」など、
それぞれ非常に詩的で絵画的な
タイトルが付けられています。
どことなく
ドビュッシーのピアノ曲を進化させて
ニューヨークに運び込んだような
イメージが感じられる
素敵な組曲となっています。
バッハの組曲がキリスト教の
信仰に支えられていたように、
スティルもまた
目に見えない「神の痕跡」を
20世紀のモダンな響きで追い求めたと
考えられます。

最後のマーガレット・ボンズは、
現代アメリカ音楽史において、
クラシック音楽に黒人としての独自の
文化的アイデンティティを
誇り高く融合させ、
全国的な知名度を獲得した最初期の
アフリカ系アメリカ人女性作曲家であり
さらに天才ピアニストでもあります。
本アルバムの最終曲として収められた
「スピリチュアル組曲」は、
その表題どおり、
まさに黒人霊歌のエッセンスが
凝縮された3曲の組曲となっています。
バッハは、当時の
ドイツ・プロテスタントの賛美歌を
ベースにして、
数々の美しいオルガン曲やカンタータ、
そしてチェンバロ曲を書きました。
バッハにとって「信仰の歌」を
クラシックの芸術に昇華させることは、
生涯の仕事だったのです。
ボンズがこの組曲で行ったことも、
それと完全にシンクロします。
彼女はアフリカ系アメリカ人の
魂の拠り所である「黒人霊歌」という
信仰の歌を、
西欧の高度なクラシック音楽の形式へと
見事に昇華させたのです。
セネットはこの二人を並べることで、
音楽の素材やルーツは違えど、
そこに込められた信仰の深さと
芸術的な価値は
「完全に同等である」ことを
証明しようとしたのでしょう。

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本盤は輸入盤のみであり、
解説の日本語訳は存在しません。
しかし解説書が読めなくても
まったく問題ないのです。
セネットの意図は
「理屈で分析すること」ではなく、
バッハの端正なポリフォニーを
聴いた耳のままで、次に流れてくる
黒人作曲家たちの豊かな和音や
ステップを踏みたくなるようなリズムを
一つの「同じ地平にある
素晴らしい音楽」として
楽しんでもらうことにあるのです。
バッハの気品ある舞曲と、
時代や国境を越えた
アフリカ系作曲家たちのステップの、
ピアノ上での対話に耳を傾けることこそ
貴重な音楽体験となるのです。
やはり、クラシック音楽は愉し、です。

(2026.6.2)

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