あれはいったい何だったのか?
古楽を聴いていくと、
どうしてもたどり着いてしまうのが
「グレゴリオ聖歌」。
今となってはそのCDも
いろいろ登場しているのですが、
無視できないのが本盤でしょう。
何といっても全世界で
500万枚ものセールスを記録した、
超ベストセラーCDなのですから。
グレゴリアン・チャント
入祭唱:幼な子われらに生まれ
(第7旋法)
交唱及び詩篇第99:処女、王をば生みぬ
(第2旋法)
続唱:めでたし、世の望みなるマリアよ
(第7&8旋法)
昇階唱:すべての者らの瞳が(第7旋法)
讃歌:来たれ、創物主なる聖霊(第8旋法)
アレルヤ唱:
試練に耐えうるものは幸いなり
(第1旋法)
昇階唱:正しき者の唇は(第1旋法)
入祭唱:主の聖霊は地上に満つ
(第8旋法)
トロープス:善きことの泉なる主よ
(第3旋法)
昇階唱:われ、いかに嬉しきかな
(第7旋法)
讃歌:陽の出ずる地の果てより
(第3旋法)
昇階唱:
キリストはわれらがため
死のもとにすら(第5旋法)
交唱及び詩篇132:
新しき訓えを汝らに与えん(第3旋法)
答唱:われら、死への道程の半ばに
(第4旋法)
シロス修道院合唱団
クエスタ(指揮)
録音:1973年
「グレゴリオ聖歌」とは何か?
その定義はさまざまあるようですが、
ローマ・カトリック教会で用いられる
典礼聖歌といっておけば
間違いないでしょう。
ラテン語の斉唱(単旋律)による
無伴奏の音楽です。
したがって「グレゴリオ聖歌」は
鑑賞用の音楽ではありません。
芸術としての音楽の
源流ではあるのですが、
それ自体が現代でいう「音楽」とは
言い切れない側面を持っています。
仏教の「お経」と似た
性格のものであったのかも知れません。
あるいは「呪文」のようなものとも
いえます。
口承伝承であり、
楽譜として記録されていないため、
「音楽」としての要素は薄いのです。
ところがCDとして世の中に
出回っている「グレゴリオ聖歌」は
必ずしも
単旋律無伴奏ばかりではありません。
私が所有しているものの中でも、
ルーラントが指揮した盤は
ところどころが合唱となっている上、
オルガンによる伴奏も聴き取れます。
また、当時は
男声のみだったはずですが、
現在では女声の混じる演奏や
女声のみの演奏も見受けられます。
CDの演奏は
大まかに二通りあるようです。
一つは教会もしくは修道院における
実際の修道士たちの歌唱の録音であり、
もう一つは明確な意図を持って行われた
声楽家による録音です。
本盤はずばり前者であり、
演唱しているシロス修道院合唱団は
職業的音楽家ではなく、
修道士たちです。
決して鑑賞に適した音楽とは
なっていないのです。
この盤が1993年、
世界的なヒットを飛ばしたのですから
不思議です。
それも新録音ではなく
1973年録音の復刻再発、
意図的な販売戦略の上で
製作されたわけではなく、
単なるレパートリーの穴埋め的発想で
編集されたCDです。
ネットが普及していなかった時代に、
なぜこのようなCDが
売れまくったのか?
まさに奇蹟としか言い様がありません。
「あれはいったい何だったのか?」
という思いで一杯です。
それから30年経った現在、
改めて聴いてみると、
いくつかわかることがあります。
本盤は、西洋音楽の源流に位置する
「グレゴリオ聖歌」の、その演奏史の
源流にあたるものであるということ、
当時歌われていたであろう形を、
意図的な装飾なしで
そのまま再現したものであること、
それゆえ
「グレゴリオ聖歌」の内包している
「典礼性」「呪術性」といったものが
滲み出ているということ、
1973年の録音であるにもかかわらず、
音が意外にクリアで透明感があり、
聴きやすいものとなっていること、
などです。
そうした諸々の条件が、1990年代の
「癒やしの音楽」ブームと
重なったと考えられます。
もっとも、それだけであの大ブームが
説明できるわけではありませんが。
いずれにしても本盤がきっかけとなり、
「グレゴリオ聖歌」が注目され、
いくつもの魅力ある新録音
(ルーラント盤などその最たる成果)が
生まれたことは確かなのです。
いわば「鑑賞用音楽」としての
「グレゴリオ聖歌」誕生の引き金となった
録音といえるのです。
いろいろな「グレゴリオ聖歌」を
愉しんでいけそうです。
やはり、音盤は愉し、です。
〔ルーラント盤「グレゴリオ聖歌」〕
〔「グレゴリオ聖歌」はいかがですか〕
(2022.12.4)
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